法末集落全景

法末集落は、長岡市南部と小千谷市西南部に接する地域にあり、長岡市中心部から南西へ約33km、小国地域中心部からは約8㎞の距離にあります。

国道404号線を南下して太郎丸集落で東に折れ、県道341号を小国沢川沿いに4kmほどさかのぼると山間部に、法末集落が見えてきます。



■集落の歴史 ―平成18年度法末地区再生計画より抜粋―  

【4百年以上の歴史のある集落】

集落周辺には縄文期の遺跡もあるが、現在の集落に直接つながる記録については、「皇国地誌越後国刈羽郡法末村」に、16世紀末の上杉景勝の領地であったことが記述されています。以来、法末集落は、1869年明治維新に至るまで、高田城主である諸大名、長岡藩、あるいは幕府の直轄領となり、また、明治維新後は柏崎県、越後府等を経て1874年に新潟県に属することになりました。


法末集落の位置(新潟県内)
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新幹線を使う場合
長岡駅から小国車庫までバス(越後交通)で1時間15分、小国車庫からタクシー10分。

自動車の場合
関越自動車道小千谷ICより20分、北陸自動車道柏崎IC25分


【豊かではなかった集落】

同誌の記述によれば、本村は県庁より南方25里30町にあり、地勢は山、渓谷で、愛宕山、竹葉山及び桜木山等の嶺から西北に流れる山地の中央に村落があり、その西北は少し低くなり、耕地は全てこの渓間にあって、これを育てるに渓水、或いは雨水を持って灌漑したということです。土地柄、陸の運搬は特に不便であり、薪炭は他に売れず、魚鳥も不足しており、地味は悪く、稲、漆、蔬菜を植える以外に他のものを播植しない、水利に不便であり、しばしば旱魃に苦しんだとあります。

明治8年・9年の状況をみると、田畑の面積は現在とあまり変わらず、和紙、縮の現金収入が多かったことがわかります。

  • 土地利用(明治8年):田:40町2反 畑:27町4反 宅地:2町6反
  • 人口等 (明治9年):戸数:89戸、雑社:2戸 堂:1宇
                人数 平民89人、家族365人(男154人、女220 人)
  • 学校  (明治9年):公立第四中学区第17番小学校付属法末校
                生徒:男30人、女0人、教員1人
  • 民業  (明治9年):男は農間に製紙、或いは工を業とするものあり、
                女は農を補助し、縮を織って業とした。
  • 物産  (明治8年):白紙:211朿(88円62銭)、縮布:120反(240円)

  • 【1950年頃ピークを迎えた集落】

    1889年市町村制が施行され9ヵ村誕生、1901年には上小国村(法末村・結城野村・森光村・増田村合併)が誕生し、徐々に近代化の歩みが始まります。小国を単位とした公共施設の整備と平行して法末地区でも徐々に道路等の公共施設、生活利便施設が整備されました。1945年には農地改革が行われ、1949年には法末部落幹線道路が起工され、1957年には上小国村と小国村が合併し小国町制がしかれます。法末集落は、人口500人程となり集落人口もピークに達しました。


    【高度成長期の都市への人口流出、そして法末小学校の廃止へ】

    1950年頃から、日本経済の高度成長が始まり、旧小国町でも人口の減少が始まり1960年から75年まで5年で10%以上の人口減少が続き以後も5%台の人口減少が続きました。山間地域にある法末集落では旧小国町以上に人口減少が進み、970年以降、2000年まで5年ごとに人口が20%も減るという急激な人口減少となりました。というのも、棚田による米作りが近代化農業の路線に乗り得ず、担い手を育成することができなかったためです。集落の構成員は高齢者が多くなり、結果として、1987年度には法末小学校が閉校になりました。


    【交流事業への挑戦と挫折】

    小国町ではこれらの現象に対応するため、農村活性化策として、1970年末からレジャーランド開発、「芸術村」事業、姉妹都市交流事業等を行ってきました。しかし、これらの事業は一部を除いて成功せず、頓挫あるいは縮小しています。

    一方、1980年台後半からは、姉妹都市との交流事業を本格化させ始めました。1989年には武蔵野市との多様な内容を持つ交流が開始されました。こうした流れの中で、法末集落では、1988年3月に閉校した「旧法末小学校」の建物を改築して、1990年5月に集団教育活動施設「法末自然の家 やまびこ」が開設されました。これが、現在、法末地区の交流の拠点施設となっています。


    県道341号の崩落、新潟県中越地震では集落に入る道路が全て崩落、孤立した。

     

    【新潟県中越地震での被災】

    2004年10月に発生した新潟県中越地震は、集落の家屋、道路、農地等に多大な被害を与えました。度重なる余震によって、集落と周辺地域を結ぶ道路は寸断され、約3日間集落の方々は孤立し、最後は徒歩で集落脱出、仮設住宅への居住を余儀なくされました。この時、集落の人びとは戻って来られないことを覚悟したそうです。


    しかし、集落に避難勧告が出され、集落に戻ることができない状況の中でも、自力で集落に戻り、被害を受けた棚田の修復を行ったり家屋の手入れをする者もいて、避難勧告が解けた2005年7月22日以降、住民は次第に集落に戻り、震災前の54戸のうち43戸が帰村を果たしました。

    新潟県中越地震で大きな被災を受けた集落としては、最も帰村率の高い集落となっています。


    【そして、集落の創造的復興へ】

    高齢化率が70%を超える集落ですが、集落と支援組織が連携して、『法末たっしゃら会』を立ち上げ、集落と新潟大学、中越震災復興プランニングエイドなどが協力して、集落の創造的な復興に取り組んでいます。

    このホームページでは、法末集落の日常の風景に加えて、創造的な復興への取り組み随時紹介していきます。